8月特集 : 想い出の夏
【投稿日:2011年8月 1日】
震災の余波で様変わりするとは言え、今年も夏がやってきました。
幼い頃、夏はまたとない冒険の季節でした。
田舎に住むおばあちゃんは膝でスイカを見事に割って、孫の私達に尊敬の念を植えつけました。
学生の頃、遠くに蝉時雨を聞きながら、将来を語り合う友に熱い眼差しを送りました。
そして、大人になった今、陽炎の向こうに見える山影に身を置かんとしています。
何故か夏は想い出のページが多い季節です。
古いアルバムのホコリをそっと拭ったら、そこには紛れもなく想い出の淵に腰を下ろす自分がいました。
旅情編
★ 夏の夜の逢瀬 ★
「君を想うばかりに寄り添い 君を思うばかりに離れる
一粒の涙にも似せたその憂い
知ってか知らでか その冷たき光愁眉を引く
逢瀬は毎夜なれど 心叶わずして待ちくたびれる宵」
その逢瀬に出逢ったのは夏の上高地の夜空でした。
吊り橋にたたずんで見上げた空に美しい三日月が憂いを秘めて夜を待っていました。
あたりが暗くなるにつれて、月に寄り添うように一つの星が光を放ち始めました。
でも、三日月は気高くも冷たく白い輝きで夜空を支配しました。
星は叶わぬ恋と知りながらも、夜明けまで身じろぎ一つしません。
そんな想いに誘われる夏の宵が私は好きです。
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| | 迷うことなくこっち | | 静かなる支配 |
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★ 遥かな尾瀬 ★
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| | 尾瀬湿原 | | |
尾瀬は長年行ってみたい“片思いの”地であった。
♪♪夏が来れば 思い出す 遥かな尾瀬 遠い空・・・・・♪♪
筆者の頭にメロディーと詩が先行していた遥かな尾瀬。
そこに2008年6月初めて地域の仲間たちと足を踏み入れることができた。
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| | 仲間たち | | |
そこは想像以上に素晴らしい空間であり、筆者の夏の思いでの1ページになった。
初夏と言ってもあちこちに雪が残っているが水芭蕉はまさに百花繚乱を迎えようとしていた。
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| | 雪道を歩く | | 尾瀬沼 |
♪♪霧の中に 浮かび来る 優しい影 野の小道♪♪
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| | 水芭蕉の花 | | |
♪♪水芭蕉の花が 咲いている 夢見て咲いている 水のほとり♪♪
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| | 霧の中に続く道 | | |
♪♪石楠花(シャクナゲ)色に 黄昏(タソガレ)る 遥かな尾瀬 遠い空♪♪
石楠花色の黄昏を見ることができなかったが、雄大な景色をスケッチした。
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| | 尾瀬スケッチ | | |
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★ 北アルプス縦走 ★
結婚を翌年に控えた25歳の私は、友達2人を誘って北アルプス縦走に出掛けた。その頃の新宿駅には山登りの格好をした仲間が沢山いて、どのグループに楽しそうだった。夜行列車に乗り有明駅に着いたのは5時半頃。
4時間掛けてひたすら登り、高度2700mの燕岳付近に出た。もうここからは尾根を歩くだけと軽い気分になる。
しかし、仲間の一人がバテテしまった。そこで仲間のキスリングを私が背負って宿泊地「ヒュッテ西岳」に辿り着いた。今でも当時の馬力は凄かったと想う。
縦走していて感じたことは、次の山に行くには必ず下ってから登るのである。その山が12個もあった。
大変だったのは何と言っても大キレットから北穂高岳への登りで手も使い、足を滑らせば谷底である。綺麗だったのは槍ヶ岳山頂と北穂高山荘から眺めた雲海が渦巻く夕日である。夏になるとまた登ってみたいと強く想う。

想い出の写真:槍ヶ岳:3,180m、奥穂高岳:3,190m
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| 後ろが槍ヶ岳 | | 奥穂高岳(後ろ下が大正池) | | 仲良し3人組(河童橋付近) |
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★ はじめての小旅行 ★
想いでの夏といえば初めて友人と小旅行に行ったときである。高校2年の夏休み、クラス仲間左川君と二人で小豆島へ行った。大阪の天保山から小豆島の坂手まで関西汽船で5~6時間くらいだったろうか。なぜ2人で行くことになったのか記憶にないが、仲の良い友人だったのだろう。
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| | 到着した坂手港桟橋で | | |
小豆島は1954年木下惠介が撮った映画『二十四の瞳』(壺井栄原作 主演;高峰秀子 )で有名になっていた。映画『二十四の瞳』は小豆島を舞台に、赴任したばかりの若い女性教師と、その年に小学校に入学した12人の児童のふれあいを描く作品である。
多くの観光客が来ていたように思う。
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| | 二十四の瞳で有名な平和の群像 | | |
2人で島めぐり観光ツアーに参加した。猿が群生する寒霞渓や地元の醤油工場など小豆島のあちこちを観光したが半日もかからなかった。バスガイドさんが「オリーヴの唄」教えてくれたことを憶えている。二子浦を背景にした写真が残っているが筆者が所有する最も古い観光ツアー団体写真だ(昭和33年8月)。前列右端が友人で隣が筆者、バスガイドが後ろに立っている。
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| | 記念写真 | | |
旅館を予約せずに行ったが、2人で探していると旅館の仲居さんから声をかけられそこに泊まることにした。旅館の夜も思いでがある。
どこかの大学生のグループが来ていて、麻雀のメンバーが足りないから(むりやり)いれられたり、その後の飲み会に参加させられたり真面目な2人の高校生は戸惑うばかりで、大人の世界を垣間見た思いだった。
翌日は土庄港近くのおだやかな鹿島湾で思う存分海水浴を楽しんだ。
小豆島旅行は筆者にとって想いでの夏の1ページである。
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体験編
★ フィラデルフィアの暑い夏 ★
もう25年前になりますか、86年8月のU.S.Aペンシルバニア州の州都フィラデルフィアは、とても暑かったと記憶しています。
ここで国際人工知能学会が開催されました。
当時、人工知能は無限の可能性を秘めた学問・技術とみなされ、多くの研究者と技術者そして企業が参加しました。
日本のコンピュータ学際も業界も、エドワード・ファイゲンバウム教授の「第5世代コンピューティング」に焚き付けられて、未曾有のAIブームが訪れていました。
そのおかげでしょうか、わたくし与太郎も、なんとなく会社より派遣されて東海岸行きとなりました。
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| | ペンシルバニアホール前の噴水で | | |
論文発表の盛んだったことは申すまでもありませんが、 ヒューレッドパッカード社その他企業も競い合うように、連日パーティを催し、われわれもまた、ますます拡大する学際とビジネスの中で、人脈を求め、積極的に飛び込んで誰彼となく議論し、談笑するそんな熱気に包まれた、とても暑く、かつ熱い夏でした。
<大問題 酒屋がどこにも無い>
清教徒の教えが色濃く残るフィラデルフィアは、リカーショップ(酒屋)が無く、高級レストランで食事をしてもワイン以外には、「バドか、ハイネケンならあるが」とウェイトレス。出てきたのは缶ビール。
安く量のあるお酒を探せば、結局タクシーでチャイナタウンに行って紹興酒をまとめて買う以外ありませんでした。ですから、企業のパーティは大助かりでした。毎日、ホテル近くの食堂で3ドル以下の軽い朝飯、昼は会場前に出ている屋台からカット・フルーツ山盛り2ドル(二日酔いに最適)ですませ、夕食はパーティでただ酒にありつきました。
<ビル街に馬がたくさん>
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| タクシー代わりの馬車 | | 騎馬警官 | | 馬駐(こまどめ)のポール |
休日は、二日酔いにふらつきながら、荘厳な市庁舎前からフィアデルフィア美術館目指して歩きました。
観光馬車が留まり、騎馬警官も巡視しています。道路わきには手綱をつなぐ馬駐(こまどめ)のポールがいたるところにあります。
近代都市ですが、かつて独立戦争の主要な舞台でもあり、その後首都でもあった名残がそこかしこに残る、馬と教会の多い古都でもありました。
<俺はロッキーだ>
途中で観光案内を思い出し、「あっ、この路は映画”ロッキー”で主人公が勝利後に走った場面だ」と気づきました。
無名のSスタローンが脚本家兼主役で一躍スターダムに上り、このころ確か「ロッキー3」まで見ていましたね。
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| フィラデルフィア美術館 | | 正面 | | ロッキーステップの市庁舎 |
そうだ!、ここだ!、と興奮して、小走りに走って美術館正面の石段に、「ロッキー・ステップだっ!」ここは見せ場です、駆け上がってガッツポーズをしよう、と意気込んだのですが、途中でこけてしまいました。
炎天下・二日酔い・興奮・石段のぼり、・・・アザはできましたが、救急車のお世話にならなかっただけ、めっけものでした。ほんと馬鹿だなあ。
その後、軽いめまいと吐き気を我慢しながら、美術館の収蔵品、浮世絵の肉筆画や美術的な価値の高いクラシック拳銃などを見て回りました。
予定は他にありましたがあきらめて、タクシーでホテルに戻り、紹興酒を呑んで寝てしまいました。
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| | 自由の鐘と二日酔いの与太郎 | | |
翌日、論文発表会の会場で同じ町内のオジサンとお会いしました。なんと、彼もAIをやっているとのこと、驚きましたね。で、夕方は早めに会場を抜け出して、アメリカ独立の象徴「自由の鐘」を見に行って、食事をして、バドワイザーの缶を数本づつ空けました。
大変に暑いフィラデルフィアの夏でした。
その後与太郎は、カーネギーメロン大学(ピッツバーグ)、スタンフォード大学(スタンフォード)、UCLAバークレイ校(バークレー)などの著名な教授とお会いして、ありがたいお話をたくさんお聞きし、人工知能研究で抜きんでいた企業の研究所なども訪問しました。
が、なにせ不真面目な与太郎は、結局、正当派の人工知能技術には興味をそそられず、身にもつかず、帰国後、当時亜流だったファジイやニューラルネットワークに行ってしまいました。これなら国内で間に合ったのです。
約1ヶ月間のアメリカ滞在費用は、完全に無駄でした。
ええ、そうですよ、暑い夏は、勉強には不向きなんです。
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★ EXPO’70の夏 ★
♪せんきゅ~ひゃくななじゅ~ねんの~ こんにちわ~
1970年、日本で初めての国際博覧会「大阪万博 EXPO'70」が開催されました。もう、41年も前になるのです。
戦後の高度成長を遂げていた日本が、その経済力や国力を世界に見せつけようと、国中を挙げて大阪万博の成功へと邁進していました。多分・・・?
少し前のこと。
書棚を整理していたら、埃にまみれ、変色しかかった万博記念写真集が出てきました。
ひたすら懐かしくて、あの元気だった日本のことや、若かった自分のこと。
そして、あの日の暑かった万博会場のことを思い出しました。
記憶をもっとはっきりさせようと、古いアルバムを引っ張り出して、あの日の写真を探します。
ちゃんと撮影したはずの会場の写真は何も残っていなくて、アルバムには自分たちのスナップばかり。
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| 一応撮影をしていました | | 鏡に映る自分たち | | 凹面鏡がいっぱい |
アルバムに貼りついているメモにはこんなことが書いてありました。
『日本中を総動員させた様なEXPO'70へ、親友3人と共に行ってきました。人・人・人・・・・とにかく、何を見るのにも、暑い太陽の下で黙って並んで待っている日本人の我慢強さにただただビックリ!』
日本人が「きちんと並んで長時間待つ」ことを初体験したのは、あの大阪万博だったのかも。
1970年のあの夏。万博に遊んだ日の思い出は、今ではもう、遠く遠くなりました。
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★ ハマボウフウ ★
砂草や
声なき声で
裾を引く
根なし草とて
生きるは同じ
2011年7月の茅ヶ崎海岸は夏の暑さと人の熱さで陽炎が立たんばかりでした。
この日はハマボウフウ里親プロジェクトの現地見学会です。
かつては、全国で群生が見られたハマボウフウも食用、漢方薬として重宝がられ、その姿を消そうとしていたのですが、あるNPO法人がその復活保護に乗り出したのです。
代表の植物に対する造詣の深さと注ぐ愛情には驚くばかりですが、今まで目も
くれなかった砂地の植物一つ一つに愛らしい名が授かっており、その存在自体にも健気な物語りがあることを知りました。
「アメリカ根なしかずら」は一見釣り糸が絡まったまま放置されているようにしか見えません。
元は根があったのですが、宿主に巻きつきながら寄生すると根がなくなるというれっきとした植物なのです。
劣悪な砂地という環境を知りつくしたすさまじいまでの生き方です。
海水浴客の賑わいを遠くに聞きながら、この植物たちは今年もまた灼熱の砂地で声も立てずにひと夏を過ごすのです。
2011年夏の1シーンを飾るには何だか切ない想い出となりました。
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★ 見知らぬ花が咲きました、が ★
ある夏の日に、2回のベランダのプランターに、見知らぬ花が咲きました。
清楚で気品があって、でも、とても立派な天からの贈り物、鳥さんの落し物?
秋になると、なんだか逞しい力強い実がなりました。
次の年から毎年、種がこぼれて勝手に咲くので、楽しみにしていました。
数年たって気になったので、調べてみました驚きました。
それは猛毒の「朝鮮朝顔」だったのです。
毎年事故死も出るそうな夏休みには孫達が遊びにきます。 あわてて、全部焼却しました。
でも、ちょっとだけ、「あの花は 綺麗だった」とおもいだすときがあります。 (ag)
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