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今月の特集

8月特集 : 想い出の夏

【投稿日:2011年8月 1日】

      

 震災の余波で様変わりするとは言え、今年も夏がやってきました。
幼い頃、夏はまたとない冒険の季節でした。
田舎に住むおばあちゃんは膝でスイカを見事に割って、孫の私達に尊敬の念を植えつけました。
学生の頃、遠くに蝉時雨を聞きながら、将来を語り合う友に熱い眼差しを送りました。
そして、大人になった今、陽炎の向こうに見える山影に身を置かんとしています。
何故か夏は想い出のページが多い季節です。
古いアルバムのホコリをそっと拭ったら、そこには紛れもなく想い出の淵に腰を下ろす自分がいました。

目次

 
  青春編
    ・
少年時代・・・恋の芽生え!?
    ・学生村

  旅情編
    ・夏の夜の逢瀬
    ・遥かな尾瀬
    ・北アルプス縦走
    ・はじめての小旅行


  郷愁編
    ・
百日紅(さるすべり)に父を偲ぶ
    ・京都1968 遥かな夏

  体験編
    ・フィラデルフィアの暑い夏
    ・EXPO’70の夏
    ・ハマボウフウ
    ・見知らぬ花が咲きました、が
   

青春編


★ 少年時代・・・恋の芽生え!? ★
 もう50年もさかのぼった春、中学3年生に進級し、クラスは3年A組に決まっていた。どんな仲間たちがそろったのか興奮しながら、登校した。2階のA組のクラスについたころにはほとんどの生徒たちがすでに集まっていた。その時、吉田くん(仮称)が突然「吉永あい(仮称)さんは加藤が好きなんだぞ」と叫んだ。一瞬何のことが分からないまま、吉田くんの方を見たとき、そのそばには吉永あいさんが顔をすくめて座っていた。この時まで吉永あいさんという女性の存在すら知らなかった。でも自分にとって彼女がどんな女性であるかは全く興味がなかった。
 1時間目はホームルームでクラス委員の選挙と席の配置を決めることであった。原則として背の高い人は後ろと決まっているので自分はあわてなくてもだいたいどの辺の席かは目星がついていた。その時、「ふと思った!」彼女はどこに座るのだろう。今まで関心がなかった吉永さんのことが気になりだした。よし!!ここは勝負だ!あえて後ろから4番目のほぼ真ん中の席を選んで、手を挙げた。誰も希望する者はいなかった。あとは彼女がどこを選ぶのかだけだった。隣の級友と話すでもなく、ただ前をみている吉永さんに愛おしささえ感じた。こんな体験初めてである。もしかしてこれは・・・。
 彼女が手を挙げた。いよいよ来た。彼女は黒板に書かれた机の配列を指さしながら何と自分の左隣を吉永さんは選んだ。その時始めて左を向いて彼女の顔を見た。彼女も当然のように僕のほうに顔を向けた。僕は心の中でニコッとした。それからというもの彼女に対する感情が高ぶるばかりであったが、必死で抑えた。自分も好きだなんてとても言えない。苦しい毎日がつづいた。
   
 3年A組  
 
 運動会の季節がやってきた。赤、白、黄色と3組に分かれることになった。それから時間があれば、ピラミッドやフォークダンスのリハーサルが何度か行われたが、自分にとって胸がときめいたのがフォークダンスであった。2列になって、グラウンドを1周するように円陣を組み、音楽がはじまるのを待つ。その時つねに隣にいたのが吉永さんだった。うれしさをこらえるのが大変ぐらいであった。もしかして彼女もそうなのかもしれないと思うとなおさらだ。
 10月を迎えた某日、田中(仮称)さんが声を掛けてきた。「兄が慶応大学の文化祭に友達を連れてきてもいいよ、と、ゆっているんだけど加藤君いかない?」「カレーライスの券もあるよ!」、「3枚あるの」、「3枚」、「そうよ!吉永さんも行くの」、「えっ!!行くっ)、このとき田中さんは吉永さんの親友であることを初めて知った。
慶応大学の日吉キャンパスの当日、田中さんのお兄さんは約束の場所で待っていてくれた。3人でカレーライスを食べた後、グランドの近くの木立で田中さんは吉永さんと僕のツーショットを撮ってくれた。その後、田中さんは「私、兄と帰るから」、「え~っ!)
初めて女性と二人っきりになった。そのあとどうして帰ったのか記憶にない。

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★ 学生村 ★
 夏の思い出は、毎年数々あれど、想い出の夏となる特別の夏となると…高3から浪人時代を挟み大學1年まで3年間行った「学生村」を語ろう

 学生村とは昭和35年ごろ長野県伊那地方で始った夏休みに学生だけに絞った民宿村で、その後白馬村が大々的に打ち出し、その後一時期各地ではやった。 
 私の初めての学生村は、中学3年と高校1年の夏、その白馬の学生村だったが、想い出の夏に出てくる学生村はここではない。
 それは高校3年から3年間夏を過ごした長野県小県郡丸子町虚空蔵。信州上田からバスで1時間強、美ヶ原のふもと、秘湯と言われた鹿教湯(かけゆ)温泉の近くのお寺だった。
正式名は「天台宗法住寺」。虚空蔵堂が国の重要文化財となっている由緒正しきお寺。
 ここに高校3年、同じ高校の友人6人と約1ヵ月を過ごした。私らの高校はいわゆる受験校で、高2から実質的に「受験勉強」体制に入っており、高3の夏だとさぞかし勉強漬けの毎日であったろうと想像されるかもしれないが、それはのんびりしたものだった。午前中は勉強の時間、午後も一応勉強の時間としていたが、おやつの時間を過ぎると何となく各自気儘な時間を過ごしていた。勉強する者、読書する者、寺の境内で子供たちを集め三角ベース野球する者など。夜も少し勉強したが、住職初めご家族一家とゲーム大会などに興じのんびり自由に過ごしていた。
 勿論勉強はしていた筈だがなぜか記憶に残っていない。それゆり強烈に残るのは、都会育ちの私の初めての田舎暮らし。畑でもいで其の場で齧った野菜の旨さ、川のせせらぎで手づくりの仕掛けで魚釣り、夕方バスで10分ほどの鹿教湯温泉の共同浴場(無料)、お盆の三日間毎晩遅くまで行われる「盆踊り」…。「東京の学生さん」と特別扱いながらも仲間に入れて下さる郷の人々。今でも残る新鮮かつ強烈な印象と記憶だ。
更に開放的な気分につられ未成年ながら隠れて煙草を全銘柄吸ったり、温泉帰りに焼鳥屋さんでごく軽く一杯をやっていたことなどは、住職も知らない青春の一こま。

 結果?6人の結果は3人は東大現役合格、不合格の3人は別なメンバーを加え一浪時代も夏この学生村に戻り捲土重来を図ったが、翌年は紛争で東大は試験が行われず、それぞれの大学に進む結果となった。
これぞ私の「想い出の夏」である
  
 本堂:寝泊まり勉強、全てここ    重文・虚空蔵堂:          読書したり野球やったり…
 


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旅情編


★ 夏の夜の逢瀬 ★
「君を想うばかりに寄り添い 君を思うばかりに離れる
 一粒の涙にも似せたその憂い
知ってか知らでか その冷たき光愁眉を引く
逢瀬は毎夜なれど 心叶わずして待ちくたびれる宵」

その逢瀬に出逢ったのは夏の上高地の夜空でした。
吊り橋にたたずんで見上げた空に美しい三日月が憂いを秘めて夜を待っていました。
あたりが暗くなるにつれて、月に寄り添うように一つの星が光を放ち始めました。
でも、三日月は気高くも冷たく白い輝きで夜空を支配しました。
星は叶わぬ恋と知りながらも、夜明けまで身じろぎ一つしません。
そんな想いに誘われる夏の宵が私は好きです。
  
 迷うことなくこっち 静かなる支配
 

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★ 遥かな尾瀬 ★
   
 尾瀬湿原  

尾瀬は長年行ってみたい“片思いの”地であった。
♪♪夏が来れば 思い出す 遥かな尾瀬 遠い空・・・・・♪♪
筆者の頭にメロディーと詩が先行していた遥かな尾瀬。
そこに2008年6月初めて地域の仲間たちと足を踏み入れることができた。
   
 仲間たち  

そこは想像以上に素晴らしい空間であり、筆者の夏の思いでの1ページになった。
初夏と言ってもあちこちに雪が残っているが水芭蕉はまさに百花繚乱を迎えようとしていた。
  
 雪道を歩く 尾瀬沼
                  
♪♪霧の中に 浮かび来る 優しい影 野の小道♪♪ 
   
 水芭蕉の花  

♪♪水芭蕉の花が 咲いている 夢見て咲いている 水のほとり♪♪
   
 霧の中に続く道  

 ♪♪石楠花(シャクナゲ)色に 黄昏(タソガレ)る 遥かな尾瀬 遠い空♪♪
石楠花色の黄昏を見ることができなかったが、雄大な景色をスケッチした。
   
 尾瀬スケッチ  


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★ 北アルプス縦走 ★
 結婚を翌年に控えた25歳の私は、友達2人を誘って北アルプス縦走に出掛けた。その頃の新宿駅には山登りの格好をした仲間が沢山いて、どのグループに楽しそうだった。夜行列車に乗り有明駅に着いたのは5時半頃。
 4時間掛けてひたすら登り、高度2700mの燕岳付近に出た。もうここからは尾根を歩くだけと軽い気分になる。
しかし、仲間の一人がバテテしまった。そこで仲間のキスリングを私が背負って宿泊地「ヒュッテ西岳」に辿り着いた。今でも当時の馬力は凄かったと想う。
 縦走していて感じたことは、次の山に行くには必ず下ってから登るのである。その山が12個もあった。
大変だったのは何と言っても大キレットから北穂高岳への登りで手も使い、足を滑らせば谷底である。綺麗だったのは槍ヶ岳山頂と北穂高山荘から眺めた雲海が渦巻く夕日である。夏になるとまた登ってみたいと強く想う。
 

 想い出の写真:槍ヶ岳:3,180m、奥穂高岳:3,190m
後ろが槍ヶ岳奥穂高岳(後ろ下が大正池)仲良し3人組(河童橋付近)


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★ はじめての小旅行 ★
想いでの夏といえば初めて友人と小旅行に行ったときである。高校2年の夏休み、クラス仲間左川君と二人で小豆島へ行った。大阪の天保山から小豆島の坂手まで関西汽船で5~6時間くらいだったろうか。なぜ2人で行くことになったのか記憶にないが、仲の良い友人だったのだろう。
   
 到着した坂手港桟橋で  

          
小豆島は1954年木下惠介が撮った映画『二十四の瞳』(壺井栄原作 主演;高峰秀子 )で有名になっていた。映画『二十四の瞳』は小豆島を舞台に、赴任したばかりの若い女性教師と、その年に小学校に入学した12人の児童のふれあいを描く作品である。
多くの観光客が来ていたように思う。

   
 二十四の瞳で有名な平和の群像  

  
 2人で島めぐり観光ツアーに参加した。猿が群生する寒霞渓や地元の醤油工場など小豆島のあちこちを観光したが半日もかからなかった。バスガイドさんが「オリーヴの唄」教えてくれたことを憶えている。二子浦を背景にした写真が残っているが筆者が所有する最も古い観光ツアー団体写真だ(昭和33年8月)。前列右端が友人で隣が筆者、バスガイドが後ろに立っている。
   
 記念写真  


 旅館を予約せずに行ったが、2人で探していると旅館の仲居さんから声をかけられそこに泊まることにした。旅館の夜も思いでがある。
どこかの大学生のグループが来ていて、麻雀のメンバーが足りないから(むりやり)いれられたり、その後の飲み会に参加させられたり真面目な2人の高校生は戸惑うばかりで、大人の世界を垣間見た思いだった。
翌日は土庄港近くのおだやかな鹿島湾で思う存分海水浴を楽しんだ。
小豆島旅行は筆者にとって想いでの夏の1ページである。




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郷愁編


★ 百日紅(さるすべり)に父を偲ぶ ★
幼い頃、庭先に百日紅の木がありました。
樹形が木登りに向いていたので、お転婆な私は猿も滑り落ちるというその木に登っては父に笑われました。
夏になると真紅の花が辺りを征し、暑さがかすむほどでした。
何故か百日紅の季節になると父を思い出します。
遠く離れて暮らす父の死を知らされたのは、私の還暦を祝うパーティーの翌日でした。
華やかな席を邪魔しないかのような父の最後のはからいでした。
季節は百日紅には早い5月でしたが、その時、私の目に映ったのは、まぎれもなく真夏の空に燃えて咲く赤い花でした。
娘の学校の運動会にダンディーな姿で現れる父は私の自慢でした。
生涯、ただひとり、その愛が薄まらなかった異性が父だったような気がします。
  
 夏空を覆う 最後の写真は姉妹そろって


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★ 京都1968 遥かな夏 ★
昨年暮れ、ご主人からの喪中欠礼葉書が届き、幼馴染みの訃報を知った。
隣に住んでいた同い年の敏子ちゃん。子供の頃は、いつもくっついて遊ぶ仲良しだった。
私は都内から神奈川県に引っ越して行き、彼女は立命館大学に入学して京都で一人暮らし。
そして1968年の夏、遠慮知らずの若者だった私は、友達3人と一緒の京都旅行に、彼女のアパートを宿泊先に選んだ。
手紙で頼んだのか、電話で頼んだのか、優しい彼女は、私のわがままに即答でOKしてくれた。しかも彼女自身は、実家へ帰省してアパートは留守だというのに。

 金閣寺にほど近いアパートは4畳半ひと間。トイレは共同。お風呂は無い。小さな窓がひとつ。あるのは机と、たくさんの漫画がきちんと並ぶ本棚だけ。
 私たち4人は、いったいどうやってそこに寝たのだったか? ただ、ひたすら暑かったことを覚えている。4人で銭湯に行き、汗をかきながらアパートへ戻ると、本棚に並んでいた漫画をかたっぱしから読み漁っていた。みんなで「暑いね~」って言いながら。
青春まっただ中。ある日は、4人ともそれぞれのボーイフレンドと待ち合わせて別々の京都を過ごし、またある日は、カメラを抱えて皆でお寺を撮影した・・・はずだけれど、もう記憶はすっかり消えかけている。

おりしも、私たちの大学は全共闘のバリケード封鎖中。いつになったら授業が始まるのかも分からない夏。そんな不安定な日々の中、汗ばんだ肌が触れ合うほどの狭いアパートで、コロコロと笑い合いながら4人で過ごした京都の数日。遥かな昔、懐かしき夏。
でも、その数日を私たちに与えてくれた幼馴染みの彼女は、もう先に逝ってしまった。暑い夏の、サイダーの味のような思い出を、私たちの心に残しておいて・・・
   
 南禅寺で遊ぶ友人と私  



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体験編


★ フィラデルフィアの暑い夏  ★
 もう25年前になりますか、86年8月のU.S.Aペンシルバニア州の州都フィラデルフィアは、とても暑かったと記憶しています。
 ここで国際人工知能学会が開催されました。
 当時、人工知能は無限の可能性を秘めた学問・技術とみなされ、多くの研究者と技術者そして企業が参加しました。
 日本のコンピュータ学際も業界も、エドワード・ファイゲンバウム教授の「第5世代コンピューティング」に焚き付けられて、未曾有のAIブームが訪れていました。
 そのおかげでしょうか、わたくし与太郎も、なんとなく会社より派遣されて東海岸行きとなりました。
   
 ペンシルバニアホール前の噴水で  

 論文発表の盛んだったことは申すまでもありませんが、 ヒューレッドパッカード社その他企業も競い合うように、連日パーティを催し、われわれもまた、ますます拡大する学際とビジネスの中で、人脈を求め、積極的に飛び込んで誰彼となく議論し、談笑するそんな熱気に包まれた、とても暑く、かつ熱い夏でした。

<大問題 酒屋がどこにも無い>
 清教徒の教えが色濃く残るフィラデルフィアは、リカーショップ(酒屋)が無く、高級レストランで食事をしてもワイン以外には、「バドか、ハイネケンならあるが」とウェイトレス。出てきたのは缶ビール。
 安く量のあるお酒を探せば、結局タクシーでチャイナタウンに行って紹興酒をまとめて買う以外ありませんでした。ですから、企業のパーティは大助かりでした。毎日、ホテル近くの食堂で3ドル以下の軽い朝飯、昼は会場前に出ている屋台からカット・フルーツ山盛り2ドル(二日酔いに最適)ですませ、夕食はパーティでただ酒にありつきました。

<ビル街に馬がたくさん>
 
タクシー代わりの馬車騎馬警官馬駐(こまどめ)のポール

 休日は、二日酔いにふらつきながら、荘厳な市庁舎前からフィアデルフィア美術館目指して歩きました。
 観光馬車が留まり、騎馬警官も巡視しています。道路わきには手綱をつなぐ馬駐(こまどめ)のポールがいたるところにあります。
 近代都市ですが、かつて独立戦争の主要な舞台でもあり、その後首都でもあった名残がそこかしこに残る、馬と教会の多い古都でもありました。

<俺はロッキーだ>
 途中で観光案内を思い出し、「あっ、この路は映画”ロッキー”で主人公が勝利後に走った場面だ」と気づきました。
 無名のSスタローンが脚本家兼主役で一躍スターダムに上り、このころ確か「ロッキー3」まで見ていましたね。
 
フィラデルフィア美術館正面ロッキーステップの市庁舎


 そうだ!、ここだ!、と興奮して、小走りに走って美術館正面の石段に、「ロッキー・ステップだっ!」ここは見せ場です、駆け上がってガッツポーズをしよう、と意気込んだのですが、途中でこけてしまいました。
 炎天下・二日酔い・興奮・石段のぼり、・・・アザはできましたが、救急車のお世話にならなかっただけ、めっけものでした。ほんと馬鹿だなあ。
 その後、軽いめまいと吐き気を我慢しながら、美術館の収蔵品、浮世絵の肉筆画や美術的な価値の高いクラシック拳銃などを見て回りました。
 予定は他にありましたがあきらめて、タクシーでホテルに戻り、紹興酒を呑んで寝てしまいました。
   
 自由の鐘と二日酔いの与太郎  

 翌日、論文発表会の会場で同じ町内のオジサンとお会いしました。なんと、彼もAIをやっているとのこと、驚きましたね。で、夕方は早めに会場を抜け出して、アメリカ独立の象徴「自由の鐘」を見に行って、食事をして、バドワイザーの缶を数本づつ空けました。
 大変に暑いフィラデルフィアの夏でした。

 その後与太郎は、カーネギーメロン大学(ピッツバーグ)、スタンフォード大学(スタンフォード)、UCLAバークレイ校(バークレー)などの著名な教授とお会いして、ありがたいお話をたくさんお聞きし、人工知能研究で抜きんでいた企業の研究所なども訪問しました。
 が、なにせ不真面目な与太郎は、結局、正当派の人工知能技術には興味をそそられず、身にもつかず、帰国後、当時亜流だったファジイやニューラルネットワークに行ってしまいました。これなら国内で間に合ったのです。
 約1ヶ月間のアメリカ滞在費用は、完全に無駄でした。
 ええ、そうですよ、暑い夏は、勉強には不向きなんです。
 
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★ EXPO’70の夏  ★
♪せんきゅ~ひゃくななじゅ~ねんの~ こんにちわ~

1970年、日本で初めての国際博覧会「大阪万博 EXPO'70」が開催されました。もう、41年も前になるのです。
戦後の高度成長を遂げていた日本が、その経済力や国力を世界に見せつけようと、国中を挙げて大阪万博の成功へと邁進していました。多分・・・?

少し前のこと。
書棚を整理していたら、埃にまみれ、変色しかかった万博記念写真集が出てきました。
   
 
 ひたすら懐かしくて、あの元気だった日本のことや、若かった自分のこと。
そして、あの日の暑かった万博会場のことを思い出しました。

記憶をもっとはっきりさせようと、古いアルバムを引っ張り出して、あの日の写真を探します。
ちゃんと撮影したはずの会場の写真は何も残っていなくて、アルバムには自分たちのスナップばかり。
一応撮影をしていました鏡に映る自分たち凹面鏡がいっぱい
   
 アルバムに貼りついているメモにはこんなことが書いてありました。

『日本中を総動員させた様なEXPO'70へ、親友3人と共に行ってきました。人・人・人・・・・とにかく、何を見るのにも、暑い太陽の下で黙って並んで待っている日本人の我慢強さにただただビックリ!』
日本人が「きちんと並んで長時間待つ」ことを初体験したのは、あの大阪万博だったのかも。
1970年のあの夏。万博に遊んだ日の思い出は、今ではもう、遠く遠くなりました。


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★ ハマボウフウ  ★

砂草や
声なき声で
裾を引く
根なし草とて
生きるは同じ

2011年7月の茅ヶ崎海岸は夏の暑さと人の熱さで陽炎が立たんばかりでした。
この日はハマボウフウ里親プロジェクトの現地見学会です。
かつては、全国で群生が見られたハマボウフウも食用、漢方薬として重宝がられ、その姿を消そうとしていたのですが、あるNPO法人がその復活保護に乗り出したのです。

代表の植物に対する造詣の深さと注ぐ愛情には驚くばかりですが、今まで目も
くれなかった砂地の植物一つ一つに愛らしい名が授かっており、その存在自体にも健気な物語りがあることを知りました。
「アメリカ根なしかずら」は一見釣り糸が絡まったまま放置されているようにしか見えません。
元は根があったのですが、宿主に巻きつきながら寄生すると根がなくなるというれっきとした植物なのです。
劣悪な砂地という環境を知りつくしたすさまじいまでの生き方です。
海水浴客の賑わいを遠くに聞きながら、この植物たちは今年もまた灼熱の砂地で声も立てずにひと夏を過ごすのです。
2011年夏の1シーンを飾るには何だか切ない想い出となりました。
砂地に咲く
ハマボウフウの花アメリカネナシカズラ



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★ 見知らぬ花が咲きました、が  ★
 ある夏の日に、2回のベランダのプランターに、見知らぬ花が咲きました。
清楚で気品があって、でも、とても立派な天からの贈り物、鳥さんの落し物?
秋になると、なんだか逞しい力強い実がなりました。
 
   

 次の年から毎年、種がこぼれて勝手に咲くので、楽しみにしていました。
数年たって気になったので、調べてみました驚きました。
それは猛毒の「朝鮮朝顔」だったのです。
毎年事故死も出るそうな夏休みには孫達が遊びにきます。 あわてて、全部焼却しました。
でも、ちょっとだけ、「あの花は 綺麗だった」とおもいだすときがあります。 (ag)


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担当者:ic