湘南の文化を追って~湘南文化のルーツをさぐる~
【投稿日:2012年1月21日】
講演風景
ちょっとおシャレで、ちょっと品がよく、明るい湘南の気質、湘南の文化はどのように生成されたのか。湘南の文化を語る第一人者文芸評論家 尾島政雄氏の講演が2011年11月藤沢市民会館でおこなわれました。拙稿(筆者注)も紹介します。
〈講師プロフィール〉
平塚市生まれ。湘南高校、早稲田大学卒。中央公論社で雑誌・書籍・全集の編集に従事。
その間に川端康成・三島由紀夫・井上靖など文学者と交流。その後、横浜・鎌倉・藤沢・平塚・相模原などで文学・文化・歴史文学・文学歴史探訪の講師や執筆、講演など幅広い範囲で活躍。藤沢市在住。
会場は藤沢市民会館小ホールとはいえ、満員の盛況。湘南の文化に関心をよせる多くの人が尾島氏の講演に聞き入りユーモアあふれる優しいまた熱が入った語り口に聞き寄せられ、あっと言う間に二時間が過ぎました。
尾島氏は講演内容を大きく三つに分けて話をされた。
講演内容
1. 湘南・文学歴史
明治以降湘南の各地に沢山の文人が在住し、ゆかりの地も数多くある。とりわけ徳富蘆花は草分け的存在で明治33年「自然と人生」の中の湘南雑事で日々の湘南生活を書いたことが世の中に「湘南」を知らせることになった。
(筆者注)
徳富蘆花は逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介、翌年1898年の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂し、随筆集『自然と人生』(1900年)を出版した。
2. 湘南のルーツをさぐる
湘南の地名は中国の洞庭湖へ注ぐ湘江と潚江(しょうこう)の間の潚湘湖南八景からきている。
二宮から三浦までいたるところに記念館、文学館や療養施設があることを紹介、その中でも鎌倉恵風園、茅ヶ崎南湖院、平塚杏雲堂などの結核療養所にも文学者や東京からの富裕層が入院し、文学活動をおこない湘南文化を創り出す要因になった。
(筆者注)
「湘南」とは、もともと中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には中国禅宗のメッカとなった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、「禅宗」を保護した鎌倉幕府の北条得宗家が居し、国内初の禅寺「建長寺」や「円覚寺」を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる。実際に、円覚寺の僧夢窓疎石の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、1664年ごろ、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。(Wikipedia湘南の由来より)
3. 湘南に吹く風をどこまでも
尾島氏の出身高校(旧湘南中学)の設立秘話を話しされ、「湘南文化」は下から起き上がってくるところに意味がある。行政機関が名前をつけ市民に押し付けても意味がない。それが文化であり、湘南文化を子や孫に引き継ぐのがわが住む町を愛する皆さんの役目であると締めくくられた。
(筆者注)
尾島氏が言いたかったことは「湘南」の文化やブランドを(取り合いするのではなく)湘南に愛着をもつ市民の皆さんが育成し、子や孫に伝えてほしいということだろう。
「湘南」は今や一種の地域ブランド名として著名となった。高級感を醸す湘南ブランドの由来は、明治時代に大磯、鎌倉、葉山地区が東京近郊の海浜保養別荘地と目され、少数ではあるが文人や政財界の要人(特権階級の富裕層)によって別荘が建てられ、この別荘地が関東地方を中心に湘南として認知されていった。
藤沢市鵠沼海岸の旅館『東屋』には、芥川龍之介、志賀直哉、武者小路実篤らが逗留し、『湘南文化人』という言葉が生まれた。
戦後は、マリンスポーツのメッカとなり日本で初めてサーフィン、ビーチバレーが行われたのは湘南の鵠沼海岸である。
そして、石原慎太郎・裕次郎兄弟の太陽族、加山雄三などが活躍した『湘南サウンド』、さらにサザンオールスターズの登場と、『湘南』は新たな若者文化の発信源となってきた。


尾島政雄氏
鵠沼海岸より江の島を見る
サーファーで賑わう湘南の海